【後編】永山薫氏との座談会(実施日:2020年11月22日)

永山薫氏との座談会(後編)
実施日:2020年11月22日
主催:女性MANGA研究プロジェクト

出席者
永山薫
大城房美
ガルブレイス・パトリック・W
杉本バウエンス・ジェシカ
長池一美
竹内美帆
濱野健

前編はこちらから


長池一美(以下・長池)それでは第2部は、私のほうでモデレーターというほどはないと思いますが、務めさせていただきます。1部のほうで、歴史的なものから現在の状況、また海外での比較など、いろいろと情報や分析などをシェアしていただきましたので、それを膨らませるような形で、海外の規制、レトリック、もしくは社会状況などを、濱野君のほうから質問していただいて、最後に主体性という大きな感じで議論といいますか、お話を聞かせていただければありがたいというふうに思っています。
 それでは、次の後半の前半部分は、濱野君のほうから。オーストラリアで博士号をやられて、ご自身の研究でも規制をされたかもしれないですし、されてないかもしれないですけれども、そういう状況もあると思いますので、濱野君にお任せしたいと思います。よろしくお願いします。

濱野健(以下・濱野):よろしくお願いします。永山さんには2015年の北九州での研究会のときに、ご登壇いただいたときに、初めて拝見させていただきお話伺わせていただいてっていうことで。その後、『エロマンガ・スタディーズ』も読ませていただきました。今回こういった研究チームに参加する中で、私自身の分野が社会学というところで、私自身の関心は先に出させていただいてる質問に関する内容です。この1時間、永山さんのお話を聞くと、永山さんの批評の視点が、非同一性というか、非本質化みたいなところに焦点を当てられていらっしゃるなっていうのが、ご自身の経歴や、あるいはこの論争に参加されるときの永山さんの意思表明として何となく伝わってくるとこがありました。
 一方で、今回ですと表現規制に対してこういった論争っていう形でそれぞれがそれぞれの思想、信条の下に、何かしらアクションを起こすときには、恐らく何らかの形で、ある程度先鋭化された価値観というか判断基準みたいなものをそれぞれが持ち込んで、これはありだ、これはなしだっていう形で参加してくると思うんです。その中で、私自身興味があるのは、そういったときに、どういう枠組み、その問題の立て方というか問題の捉え方。これをレトリックと質問では書きましたけれども。一つは、例えば海外の表現規制運動と連動する形で、どういった規制をすべきではい、または規制をすべきだという枠組みが持ち込まれたのかなっていうところです。すごく印象的だなとか、あるいはご自身にとって、とても厄介だなと思ったのがあれば教えていただきたいです。
 もう一つ。国内独自のレトリックで、なんかちょっとこのレトリックって一体、何なの?っていうふうに、すごくご自身の中で印象に残っているという、あるいは引っ掛かってるものがあったら、誰々がこうしたっていうことでなくてもいいので、どういうものが特徴的だったのかお聞きしたくて、質問をさせていただきました。よろしくお願いします。

永山薫(以下・永山):問題とされるときのレトリックっていうのは、日本も海外もそんなに差があるわけではないんです。たださっきも申しましたように、文化的な背景、歴史的な背景、宗教的な背景って全部違うので、一概にはいえないですけれども、ほぼ同じです。まず第一に、わいせつか否かっていうのが、まず1点あります。わいせつ物として規制しようっていう。もう一つが、民族差別です。民族差別っていうのは、日本では、いわゆる韓国、朝鮮の人たちに対するものですけれども、マンガでは、第三国人っていう表現があって、そこに抗議がなされたりとかっていうのは、これまでにもありましたけれども、大きな問題にはなってこなかった。海外ではどうかっていうと、さっきのオリエンタリズム批判とか、文化窃盗っていう文脈で出てくることはあるんですけれども、それがすなわち規制につながるかっていうと、そうでもないです。
 欧米のポルノグラフィーでいうと、インターレイシャル、異民族同士の性っていうのが、一つは差別的な文脈から批判されるっていうのは、例えばいわゆるネトラレみたいな形になってくると、大抵、寝取るのは、すごいたくましい黒人男性が出てくる。これはもう嫌ほど出てきます。これはサドマゾヒズムの文脈の中でも出てくるし、そういう三者関係の中にも黒人、アフリカ系の人が介入してきて、奥さんをさらってしまう。それは主に、白人が消費してるんだと思うんですけれども、そこで出てくる黒人たちっていうのは、ラッパーみたいな格好してたりとか、非常にステロタイプで差別的ではあり、問題視している人も当然いますけれども、大問題に発展したケースは見当たりません。
 次に女性差別の文脈です。女性差別の文脈っていうのは、これはもうすごい伝統的にありまして、いわゆる、これは女性解放運動、ウーマンリブが普及してきた頃から、ずっとあるんです。性の商品化批判っていうのとセットになってて、女性を物化するのはよくないみたいな形で出てきています。ただ、初期のフェミニストたちっていうのは、批判はするが、規制には反対という立場の人が、非常に多かったです。それは、その辺はちょっと歴史を見ていただければ分かるんですけれども、それも規制に即、結びつくかっていうと、そうではないです。
 次にLGBTの差別っていうのがありまして。これは少なくなってるんです。前はオカマっていうような形で、オカマがいるとか、そういう形で笑いものにするような文脈っていうのが、割と多かったんですけれども、今はもう既にそうではなくなってる。ただ、BLで一部、その辺りで当事者から、これはゲイ差別じゃないのかっていうような批判はありますけれども、これも直接、議論はあれども規制しろとかっていう話にはなってないと。
 次に、これは性の商品化っていうのは、先ほどちょっと女性差別の問題とくっつけて話しましたけども。これも商品化してなぜ悪いみたいになると、もう平行線になっちゃうし、逆にいうと、あらゆる表象の中には、多かれ少なかれ性的なものが含まれていると僕は思っているので、あまりこれは規制する側としても有効な議論ではないので、最近あんまりいわれなくなりました。
次は子どもを性の対象にすること。これはもう児童ポルノ法っていうのがあるので、実写とか実写の動画、それはもう完全に規制されています。これも非常に倫理的な話になってきて、これもいわゆるロリコンっていうのが、非常に批判の対象になってきましたけれども、成年コミック化してからは、あんまりここを突っ込む人もいなくなった。
次が青少年の健全育成という考え方ですけども、これはちょっと英語圏の方に聞かないと分からないんですけども、割と日本で特徴的かなと思います。これは少し問題があると思うのは、健全育成のために流通を規制するというような発想自体、全く論理的におかしい話になってきてるので。というのはなぜかっていうと、今どき、いわゆる強力効果論、弾丸理論っていうんですか、直接的に影響を与えるっていうような理論は、もうかなり古いものになってて。規制する側の人も、あまりそれをいわないんです。漠然とそういう風潮をつくるとか、そういう言い方はするんですけれども、直接的にこれを読んだ青少年が、何かをやるだろうとか、いわゆる、ポルノはレイプの教科書的な言い方する人っていうのは、さすがに減ってきました。にもかかわらず行政のほうでは、相変わらずその理論を使っている。使っているんですよとは言わないけれども、「影響があるでしょう」っていうのが常識になっている。これは東京都の不健全図書の審査における、委員たちの発言を見ても分かるんですけど、影響があるっていうようなことを前提に皆さん話してらっしゃる。
 もう一つは著作権に関わることです。これもやはり法律があるので、直接規制というよりは、著作権違反は著作権違反として裁かれるっていうような形になりますし、日本では親告罪ですので、盗作されたり剽窃された側が訴えない限り、問題にはなりません。ただ、これはパクりだっていうような議論っていうのは、ネット上ではもう嫌ほどあります。そこである程度の倫理的な配慮っていうのは、それぞれなされているので、これも大きな問題にはあまりなりません。大体これが日本でも海外でも、似たような形なんですけれども。
 先ほども申しましたように、特に子どもを性の対象にするっていうのは、欧米圏、英語圏、キリスト教圏が非常に厳しい。特にイギリス連邦系、それが非常に厳しいです。ただ、この子どもを性の対象にするとか、表現で子どもを使うということについては、非常に慎重であるべきだなと思うのは、イオネスコ事件っていうのがありまして。それはご存じでしょうか。イリナ・イオネスコっていう女性のカメラマンっていうか写真家です。自分の娘のエヴァに非常にエロチックな服装っていうか下着であるとか、コスチュームであるとか、高級娼婦のような扮装をさせて写真を撮って、かなりこれ話題になったんです。ところがその娘のエヴァが、後に何十年後、40年後かな、ちょっと細かいこと忘れましたけども、あれは児童性虐待であったって告白をやって、裁判になったという経緯があります。
 これは本当に実写の場合、難しい問題で、このときは子ども、未成年者が納得していても、成人してから、あれはひどい目に遭わされてたんじゃないかとか、そういう写真が流通することによって、自分はひどい目に遭ったと。それの責任を追及するっていうシーンがやはり出てきちゃうので、そこは慎重にならざるを得ないし、その辺はカメラマンの人たち、写真家の人たちっていうのも、随分、大変な思いをしてるとは思うんですけれども。そこは慎重にならざるを得ないだろう。
 僕がちょっと最近、気にしてるのは、ジェンダークリエイティブの子どもたちっていう存在があるわけです。それどういうことかっていうと、10歳とか12歳なんだけども、ドラァグクイーンなんです。パレードに参加していたりするんです。実際そこでアメリカのキリスト教右派とかには、たたかれてるんです。子どもをこうやって見せ物にしてるっていう。彼らは、主に男性、少年が多いんですけども、ファッション誌に出たりとか、非常にラディカルな活動をしてるんですけども、その子たちが成人したときに、これは実は親に強制されてたんだとかっていうような事態っていうのも想定できるので、非常に難しいなと思ってます。
 国内独自のレトリックという話になりますけれども、これはあんまりないです。変な話ですけども。大体みんな似たような、海外も、洋の東西を問わず、似たようなこといってます。これはまた宗教が全く違うイスラム圏とかになってくると、また違うと思うんですけれども、欧米系と日本っていうのは、ほぼパラレルになってて、っていうのは、ないです。日本で独自性があるとしたら、いわゆる、出羽守(でわのかみ)的な。

長池:ではのかみ?

永山:「欧米では~」、みたいな。っていうのは、日本独自といえます。ただここで注意しないといけないのは、例えばある反ポルノ団体、名前はちょっと今、挙げませんけれども、その団体の帳簿、収入とか、それがアメリカの国務省から寄付が入ってるんです。アメリカの国務省に対して、日本のポルノとか児童ポルノの状況はこういうことになってますよっていうのを報告してる。アメリカの国務省が、世界の児童ポルノの状況とか性的な問題について、毎年、白書みたいなのを出すんですけれども、その団体の意見が割と大きく取り上げられただろうなっていうようなものが、出てきたりします。それをまた日本に輸入して、「アメリカでは~」っていうような話になる。「アメリカではすごい問題になってますよ」みたいな話になったりします。
 だからそれ、日本と海外っていう意味では、実はそんなに大差はないけれども、実は規制を強化したい人たちが、キャッチボールしてる。キャッチボールして話を大きくしてる部分も、少なからずあると思います。ていうのは、もう一つは児童の商業的搾取、これはずっと何年かに一度、国際会議が開かれてるんですけども。そこから規制反対団体を排除したりとか、そういうことも行われているので、割とその辺は、情報は操作されているということはいえると思います。

濱野:ありがとうございます。

永山:予想外うんぬんのところですよね。

濱野:そうです。実は最初の二つについては、私が別の自分の研究でやってる、国際離婚と子どもの連れ去りとか、離婚後の子どもの共同養育とかの、同じような運動があるんですけれども。その運動みたいなのが、今、聞いたような、まさしく同じようなレトリックの掛け合いで動いてるんです。この場合は、キャッチボールのときの基盤になるのが、子どもの権利条約です。これを使って、日本と欧米諸国とキャッチボールしていくっていうのがあって。やっぱり同じような構造で動いてるんだなっていうので、非常に感動したんですけれども。同じじゃんっていう。

長池:感動ですか。

濱野:はい。ちょうど先週、家族社会学でそういう話をしたばかりだったので、非常に参考になりました。ありがとうございます。それで、三つ目の質問なんですけれども、まさしくこういった多分、往々にして論争っていうのは、大体、話がずれていったり、片方がより自身のレトリックの正当性を主張しようとして、全然、関係のないイシューを引っ張ってきて、無理やりそれとつなげていってマウンティングしようとするってことが、多分あると思うんですけれども。こういった割と長い論争の中に、永山さんが身を置かれて、なんでこんな展開起こしちゃったんだろうとか、なんでこんな話とくっついちゃったんだろうっていうので、何か印象深いエピソードがあれば、ぜひお聞かせ願えたらと思うんです。

永山:それはあんまりないんです。意外な点が。大体、実は、もうそれこそ10年20年前から、同じことを繰り返していて。いわゆる、先に起こった論争を知らないニューカマーが、また同じことを言い始めるっていう。それぐるぐる回ってるので、あんまり予想外っていうことはないですけれども。だから予想外ではないんですけれども、規制を強化する動きの中で、いわゆるリベラルと見なされている人たちの先鋭的な部分と、極右的な人たちが、ワンイシューでくっついちゃったりとかっていうのは、ええっと思いますけど。思想が根本的に君ら違うだろうって。これは確かアメリカでも、やはり反ポルノの立場の人たちが、キリスト教右派とくっついたりとかっていう事情があるので、何でもいいのか君ら、みたいなのはあります。

濱野:確かにアメリカだと、ポルノだけじゃなくても、新自由主義、リバタリアンとネオコンが妙にくっついちゃうみたいな、真反対の人。

永山:悪魔合体。

濱野:ええ。あります。そう考えると、例えば規制に介する論争のフレームが、ほとんど変わってないってことは、なんかいろいろ例えば、BLの話が入ってきたり、LGBTの話が入ってきたり。多分、今だと人種とかも、徐々に日本の論争の中にも入ってきてると思うんですけど、根本的なその論争の舞台、何を論争してるかっていうところがほとんど変わらないっていうような感じなんですか。

永山:変わらないです。だからBLに対する批判っていうのも、よく分かんない部分があって。あれが、主に女性の青少年を指していると思うんですけれども、どういう悪影響を与えるかっていったら、全く理解できないし、彼らも説明できないです。これが例えば、ポルノはレイプの教科書だみたいなロジックでいくと、女性がどうやって男性同性愛をするのかっていう、すごい根源的な疑問がありますね。

長池:ちょっと私のほうからもいいですか。

永山:どうぞ。

長池:BLが出てきたので、ちょっとBLのことについてもお話ししたいんですが。私の理解では、規制って初めは、パトリックも言ったようにロリコンとか、男性が一流の市民として育て上げられるために、ちゃんとしたものを読みなさいということで、BLとかレディコミとかそういうものは、規制の初期段階には、女性なんか二流市民、三流市民なので、どんなもの読んでもいいんだよという感じがあったという考え方があって。東京都の青少年条例問題ぐらいから、BLとかレディコミとか、ティーンズの、『僕は妹に恋をする』とかそういうものが入ってきて、そのとき、私、レトリックとはちょっと違うんですが、「あなたたちは今、一流の国民になったんだよ」みたいに言われたんです。昔は、インビジブルで、議論のトピックにも挙げられなかったものが、「君たちは、今、そこに挙げられてるんだよ」って言われたことがあるんですけれども。レトリックというか、そういう感じのものって、永山さんが今までやられたものの研究会とか、オフィシャルなものでも、なんかそういうものってありますか。

永山:オフィシャルなものでは、ちょっと分からないですけれども、結局、女性向けのエロチックな表象っていうのは、女性自身が消費者としてどんどん取り込んでいって、獲得していったわけです。書き手としても、竹宮先生の時代からどんどん獲得していったんです。自分たちの力で。それがもう大きな勢力になってきた。もう見逃せないなっていうのはあると思う。それとあと、よくいわれることなんですけど、これはオフィシャルなものとしては一切残ってないんですけれども、昔はゲイポルノっていうのは、これは特殊な人たちで、病気の人たちだから、取り締まったらかわいそうだみたいな意識があったんじゃないかっていうのをいわれてる。

長池:そうですね。またちょっと先ほどはじめのほうに話されたことでもあるんですけど、女性のほうが、女性が生産して消費するものに、フォビアっぽいものがあるっておっしゃってたと思うんですけれども。それは立場としては、今いますよね、議員で。杉田水脈さんみたいな感じのもの、そういう発言がやっぱり多いんですか。そういう、私は女性だから分かるんですけれどもみたいな、アイデンティティー・ポリティクスみたいな感じですか。

永山:それもあると思いますし、実は性嫌悪、セックスフォビア自体は、これ男女関わりなくいるわけです。特に保守派の人たちっていうのは、公序良俗っていうことをやっぱりいうわけで。そこから始まっていて、私が信じている日本の女性は、こういうものであって、こうあってはならない。BLなんか読むなんてとんでもないみたいな考えの人が男女ともにいるんです。

長池:了解です。

永山:それは、保守論客の人には多いと思います。

長池:すいません。ジェシカさんお願いします。

杉本バウエンス・ジェシカ(以下・杉本バウエンス):そこで、私が2000年代に入ってから少しずつBLの研究、女性マンガの研究やりだして、その前は、医療社会学やってたんです。いろいろと言われた。マンガで仕事にならないでしょ。危ないでしょ。辞めたほうがいいって。私も面白いからやるみたいな、医療社会学である程度バーンアウトみたいなものもあったので、結局こっち側のほうに流されてて、今はよかったと思いますけど。初期で研究会で発表して、周りは多くの分野の男性の研究員が、ほぼいて、いまだにそうです。私も大学で、芸術メディアのコースに所属していて、うちの大学は決して右翼ではないです。その逆なんですけど、それでも7名の専任教員のうちには、私だけが女性っていうのがやっぱりあって。
 言いたかったのは、初期の段階で、これは17年前なんですけど、BLのような研究は、日本としては恥ずかしいので、海外に発信してほしくないみたいなことを、日本人の男性の研究者に言われたんです。私として、せっかくこういう女性中心の少女マンガ、女性が強い、作家として生活ができるとか、そういうものがあって、性表現も割と自由なので、これは貴重なもの、本文化として貴重なものです。あえて発信したいで、そうじゃないよみたいなことを言われてたりして・・・。

長池:ありがとうございます。本当そうですね。私も、結構、早い段階でのBLの研究者だと思うんですけれども、やっぱり出版社とかでも、インタビューを断られてて。これは本当に恥ずかしい文化なので、趣味の人がそれこそ、許してくださいって思ってやるものなので、それを公にするような人はノーサンキューみたいな感じで言われてたのが、全く今でもないわけではないですよね。それはあると思います。
 他の方は、何かこれ大きな意味で、レトリックとか言説とかそういう意味で、コメントもしくは質問のある方、いらっしゃらないでしょうか。
 それでは、パトリックに聞きたいんだけど、ちょっとこれはレトリックと変わることと思うんですが、前、一緒に話してたときに、ロリコンの研究をしてたら、「That will be the end your career」ってノースアメリカでは言われたっていう話をしてて、それはやっぱりロリコンを研究すること自体のスティグマとタブー感からだったのでしょうか。BLは少なくとも、end of my careerとは言われないし、博士論文も書けたし。ロリコンっていうのは、もっと強いものがあるのかな。ちょっとお話がずれたけど、意見を聞かせてもらったらうれしいです。

ガルブレイス・パトリック・W(以下・ガルブレイス):そうですね。この辺についてですけれども、レトリックの限界っていうか、ちょっと変なねじれがあるんじゃないかと思いますけど。例えばBLは普通にこれについて話せるんです。堂々と。最近いろんな本出てるし、エロマンガはちょっと別。エロマンガとBLは別で、エロマンガの中では、これはノーカウント、ノータッチみたいな、そういう感じがあると思うので。やはり永山先生がなさってるように、一緒に考えて、このBLがあって、エロマンガでは立派はエロマンガです。こういうふうに考え方、先入観を変えていくのではないかと思われますが、全部は、この本当に手出しちゃ駄目、コンテンツだったと思われるなら、話し合うのは無理です。だからBLと同じように、そういうふうな快適に話し合うことができるならいいなと思いますけど。だから一緒に考えたほうがいいのではないかと思われますが、いかがでしょうか。

長池:本当にそう思います。インクルーシブな言説って必要ですよね。永山先生、どう思われますか。

永山:海外のほうが余計に圧力は強いと思うんです。さっき言った子ども原理主義みたいのがあるので。ただ、そこで僕が強調しておきたいのは、フィクションと現実をごっちゃにしないでくださいっていうのが。あなたがたのほうが、フィクションと現実っていうのを、ごっちゃにしてるんですという。これを最近、ポーランドの写真家に頼まれて、エッセイを書いたんですけども、われわれは現実と幻想の共和国と、両方に生きてるんだよっていう話を書いたんです。それがもっと認知されないといけないんだなと。
 どうもファンタジーと現実というのを、ひとつながりに、確かにひとつながりの部分もあるんですけども、そこには間違いなく皮膜っていうのがあるので。それは侵犯されて犯罪に至ることもないわけではないです。それはもうほとんど例外的なことなので。そのフィクションを責めるのは、いいかげんにしたほうがいいんじゃない?っていうのはあります。そこでは、やはりロリコンについても、BLについても、もっとさまざまな多様な性の形があるんですけれども、それについても、ちゃんとフラットに議論できたほうが面白いと思います。

長池:今おっしゃったように、本当に一つのインシデントとか事件を、もう錦の御旗みたいにして、ヨーロッパで、「俺はキラだ」って言って殺人をした例があったよね。

杉本バウエンス:ベルギーだった。

長池:ベルギーですか。だからやっぱり『DEATH NOTE』読んでたら、キラになっちゃうんだみたいな、一つの事例が使われるっていうことの怖さっていうものを、みんな分かってると思うんですが。やっぱりローメーカーの人とか、政治家は、そういうのを使って言説をつくっていくっていうことになりますね。こうやってフラットに話しましょうっていうのを、そういう話を聞いてくれない人には、どういうふうに話していけばいいんですかね。って、人生相談みたいになりましたね。すいません。
 永山さん、いろんな方と本当に、ローメーカーの人たちでも政治家でも運動家でも、研究者でもファンとかいろいろとお話してきて、やっぱり全員はインクルーシブできないと思うんです。こいつもう絶対いくら話しても話通じねえやっていう人、1人か2人か、1000人かぐらいはいたと思うんですけれども。そういうところで、こういうことだったら、それでも妥協点とか、それでも話す、フラットに話そうみたいな感じで、自分が心掛けているみたいなことって、ありますか。私だったら、もう話が通じない人は、もう話さないって思うんですけれども、それじゃなかなかやっぱり、論争っていうのものは、相手がいるもので、できているものだと思うので。そういうところでなんかヒントとかあったら、教えていただけたらうれしいです。

永山:意見が違っても話せる人っていうのは、最終的に同じ意見にならなくても、こういう意見もあるんだっていうことが理解できる人と話せばいいので。最初から、お互い全否定になる、全く接点がつくれない人は、もうそれは諦めるしかないと思うんです。

長池:よかったです。

永山:どういうことかっていうと、例えば実際に、非常にマンガ規制に熱心な団体の、顧問弁護士の人とも話したことがあるんですけれども、彼がはっきり言ったのは、すごい古い表現なんですけども、誰も、ポンチ絵を規制しろとは言ってない。私たちが言ってるのは、リアルなものなんだと。リアルな表象については問題あるって言ってるけども、そんなマンガ全体を否定しているわけじゃないよって、そんなこと言われて。そういう考え方なんだと。僕とはもう根本的に考え方は違うんですけども、この人たちはこういう考え方なんだっていうのが分かりました。
 もう一つ、議論で大事なのは、その議論してる相手ではなく、その周辺にいて見守ってる人たち、ギャラリーなんです。そのギャラリーの中で、こいつが言ってることももっともだなと思ってる人が出てくるかもしれないから、全く無駄な議論っていうのはないと思います。とはいえ、もう全然、話にならない人は、もうシャットダウンしますよ、それは。

長池:そうですね。ありがとうございます。でも確かに妥協点は探っていくっていうことが、本当に必要なんだなっていうのは、再確認できたと思います。

永山:だから妥協というよりは、違うけどこういう意見なんだっていう、ある程度ポジティブ。分かるということが大事なんです。恐らく妥協できない人は、もう当然、多いと思うんですけれども、だってその人たちがすごい真摯に話せる人だったら、なぜ自分はこう思ってるのかっていうのが、ちゃんと順序立てて説明できますから、無駄ではないです。

長池:ありがとうございます。
 
竹内美帆(以下・竹内)結構Twitterとかで、一部のフェミニストの方たちや実際に子供を持つ親たちが、そういうショタとかロリとかのマンガ表現とか、例えばラブドールみたいなものとかを批判したりするときに、それが2次元のものとか、その空想上のものの表現とかだったとしても、それを繰り返し見たりして、性的快感とかをそれによって得たりすることによって、どうしても現実の世界の実在する子どもに対する、性的な関心に向かってしまうという仮説に対する論点があると思うんですけれども。それに対して、現実と表現っていうのは違うっていう立場の意見があると思うんですけれど、そういう立場の対立に関してどのように議論していくかについて、永山さんのご意見をお伺いしたいです。

永山:それは確かに、すごい難しい問題ではあるんですけれども。政治的にそういう発言を利用してる人たちっていうのは、話し合ってもほぼ意味がないですけれども、実際問題、例えば子どもを持ってるお母さんとかが、これをあんまり表に出されると、うちの子どもに危険及ぶんじゃないか、どきどき、みたいなのは、もう十分理解できます。私も子どもがもう今30になっちゃいましたけど、子どもがいた人間ですので、その感情的なことは、すごい理解できます。恐らく、そこから解きほぐしていける部分もあると思うんです。
 もう一つは、ただやはりそこで自主規制という問題とか、ゾーニングっていう問題が出てくるんですけれども。それは僕は、言い方悪いけど、必要悪だと思ってます。表現については。ていうのは例えば、小学校の前にヌードの看板出したらまずいでしょぐらいの常識で判断していいと思うんです。どういうことかというと、確かにそれは表現の自由を侵犯することになりますけれども、そこは表現する側が、遠慮するとかではなくて、あなたたちのためにこういうのは直接見せないし、いきなり見せることはしないです。これは私たちの善意ですよっていう形。少なくてもそういう建前で、立て付けでやるのは、僕はいいかなと思ってます。
 そうではなくて、行政とかに強制される。実際、強制してるんですけれども、そこで行われてる自主規制っていうのは、単なる規制です。だからその辺、やる側、つくる側の、ある程度の裁量というのは、必要になってくると思うし、それはお互い共存していく上で必要です。ただ、僕の原理主義的な考え方からいうと、それも表現規制だと。そこからまず、それは本当はやってはいけないことなんだけども、特別に配慮しますよみたいなところがないと、後退し始めると、これは世の中の人たちの、例えば1割の人が言ってるから駄目でしょみたいなことになっちゃう。非常に問題があると。だから僕はそもそも過激な人間なので、そんなもの全部、見せちゃえって思ってるんですけども、それでは通用しないぐらいの常識は持ってます。

長池:ありがとうございます。他に何かコメント、質問は大丈夫ですか。濱野君、大丈夫ですか。

濱野:はい。皆さんにいろいろ広げていただいたんで。

長池:いえ。すごくインスパイアリングな質問ありがとうございます。アンサーもそうですが。あと15分ぐらいですが、私の質問のほうをちょっとだけ共有させていただいて、ご意見を聞かせていただければありがたいです。竹宮惠子先生の『風と木の詩』を読んで、それで性的快感を、いわゆるマスターベーション、始めたのは10歳のときで、あったものから始まったものなので、これがないと生きていけないんです。今、パンを食べるか、BLをやめるか、パン食べるのやめますみないな。BL読みますっていう感じなので。
 永山さんの本を読んでて、今の私の主体性と研究のテーマが、男性の主体性っていうことなんです。例えば、どうしても私、永山さんのチャプターで一番好きなのは、男性向けのショタとか、ふたなりとか、男の娘のほうになってしまうんですけれども。そういうところから、ちょっと言い方は悪いですが、これが必要で、ショタだからって私、男の子誘拐したことないですし、ショタめちゃめちゃ好きなんですけど、でもそうじゃないですか。男性だって、それを読んだからって、男の子誘拐するわけでもないし、永山さんの理論だったら、オートエロチシズムで、かわいがるのもかわいがられるのも自分ということでしたよね。そういうことを言っていくっていうことが、こういう規制について、これがないと生きていけない人がいるんだ。これが主体性なんだっていう、濱野君の質問とも関わってくるんですが、レトリックもしくはフラットな話をするのに、有効なのか。有効っていうのはおかしいか。有効じゃないになるから。こういうことについて、ご意見をいただければありがたいです。

永山:今の話聞いてて、すごく思ったんですけど、この議論がすごく難しいのは、honestyっていうんですかね。性的表現とかそういうことに関わる問題を話しするときに、完全にオープンにする必要はないんですけれども、自分の性的な立ち位置っていうの、ある程度はっきりさせていかないと、当事者性が一番いいとまではいわないですけれども、なぜ自分がこの問題に関わっているのかっていうのは、明確にしていかないと、まず話にならない。その上で、やはり私はこう思うっていうことをしっかり言っていくっていうのが、大事だと思うし。これは恐らく規制する側や行政の側には通用しないロジックなんです。残念ながら。ただ、批判的な人たちに対しては、ある程度の説得力は持つ。

長池:行政について効力がないというのは、あなたパン食べなくても、ご飯食べればいいでしょとか、BLの代わりに、『ドラえもん』と『名探偵コナン』を見ればいいでしょみたいな感じになるからですか。

永山:というか、彼らが表面上言ってるのは、わいせつ性とかで、そこにセックスが描かれてること自体がもう許せないことなので、これはショタであろうがロリであろうが、BLであろうが関係ないんです。実は。彼らの根底にあるのは。

長池:でも小説とかはよくて、映画もよくて、なんでマンガだけ駄目なんでしょうって根本的に返るんですけれども。

永山:それは、東京都の主事が、非実在青少年騒動のときに、はっきり「マンガは一つの読み方しかできないでしょ」って言ったんです。「小説はいろんな読み方ができるから、規制の対象にならない」。もうどんだけばか野郎なんだっていう話になっちゃうんですけど。

長池:本当ですよね。だってそのときの石原知事が、自分はマンガ読んだことないよって、コミックも知らないけど、なんか悪いことらしいよみたいな感じで言われる人に、私はこれがないと生きていけないんですって言っても、効果はないってことですけど。

永山:効果はないですね。

長池:でも何かそういうことをフラットな会で考えるときに、当事者性、もしくは主体性というものがあるということが、一つの可能性に結びつくこともあるという。

永山:結びつくと思うんです。

長池:そうですね。他に何かここにコメントがあられる方は。私の最後の質問になりますが、当事者性と主体性ということで、今お話していただいて、自分でも再確認できたんですが。この会の初めに、GIDとトランスヴェスタ、トランスジェンダー、バイセクシャル、いろんなものが実は違う、同じでひとくくりにする話っていうのも危険である。もしくは、あまりにもそれが原理主義的に、このクライテリアで、バイセクシャルを語ってくださいとか、このクライテリアでトランスジェンダーを語ってくださいっていうことも、ある意味、問題であると思うんですが。
 今、私が田亀源五郎の論文を書いてるっていうこともあるんですが。それで、田亀源五郎の『ゲイ・エロティック・アート』の本を読み返していて、やっぱりゲイっていうものについてのポルノっていうのは、ヘテロセクシャルの人のポルノとは違うんだよっていう言説で、先ほどちょっと言われたように、特殊な人だから許してくださいっていう考え方があったっていうふうにおっしゃってることと、つながるんだなと思ったんですが。その考え方、言説って、今でも有効的って、ごめんなさい。語彙が少なくて。有効的っていいますか、どう思われますかってなっちゃうんですが。

永山:そもそも見逃してくださいって言ったのは、ゲイの側ではなくて、行政の側がそういう理由でお目こぼししてるといおうか、そっとしているんだよみたいな、これはあくまでも伝説なので、実際にあったかどうかっていうのは、これは証明のしようがありません。田亀さんの話なんですけれども、田亀さんが言ってることは、すごいもっともなんです。というのはなぜかっていうと、ストレートの男性、あるいはストレートの女性でもいいんですけれども、現状を考えると、ポルノ資産っていうのが、ポルノ・アセットっていうのが、非常に豊富にあるので、選択肢も多岐にわたっているから、苦労しない。それに対して、ゲイの人たちは、かつてっていうか今でもそうなんですけども、ガチのゲイのポルノっていうのは、やはりすごい少数派で、ゲイのコミュニティーの中では共有されているけど、あんまり外には出ていかないっていうのがあります。
 ただこれはよく考えてみると、女性向けのポルノグラフィーが、全くなかった時代っていうのがあるんです。男性のポルノ的なコミックっていうのも、ほぼなかった時代があるんです。それはもう需要と供給っていうのが、一つ鍵になるんで、経済的なことがあって、それが商売になるっていうのがあって、一般化していって、エロマンガもすごい一時期、今はもうかなり衰退している部分あるんですけども、非常に流通したし、BLもそうなんです。ただ、ゲイの人たちにとって非常に今ラッキーなことは、BLのおかげで、BLを楽しんでるゲイの人たちも増えてます。そういう回路ができたっていうのは、幸せといえば幸せなんですけど。ただ、そこに当然、当事者ではないので、ゲイ差別的な文脈が入り込んだりとか、ついぽろっと、「俺にはそっちに趣味がないんだよ」みたいなせりふを言っちゃって、はって思われたりするとかっていうのは、あるんですけれども。
 例えば竹宮惠子先生の時代っていうのは、割と少年たち、美少年が出てきてっていう、これはエッセイにも書いたんですけれども。これが今や、すごいガチホモみたいな、ガチホモって言い方悪いんですけど、すごい筋肉の青年とおじさまが、それが非常に激しいセックスを繰り広げるような、媒体さえ違えば、ゲイコミックとして通用しそうな、非常におおらかな作品もあります。ただそれはゲイの、田亀先生のような立場からいくと、決して本意ではないとは思うんですけれども、そういうふうに回路が開かれていってるし。実際そのゲイコミックを描いている方でも、BLのエリアで描いたりする人も出てます。その辺は、ある程度は時間が解決してくれるかなと思います。
 ただ、セクシュアリティやジェンダーの多様化っていう問題があるんですけども、多様化が分断化につながるのは、僕は最悪のパターンだと思います。ただその萌芽っていうのは、もう実は昔から見えてて、そもそもゲイリブの時代には、ショタの人たちもいっぱい入ってたわけです。結局それはかなりペドファイルの人たちも入ってたんだけれども、ゲイリブが社会性を獲得して、社会に認知されるようになっていく過程で、彼らっていうのは、除外されていった。やっぱり青少年、子どもとセックスするのはよくないだろう。そういう人たちを抱え込んでると認知されないっていうような、非常にそれは政治的には正しかったかもしれないけれども、そこで分断っていうのが起きていきます。
 さっき言ってた異性装の話にしても、そこでも実は分断が起きていないか? トランスジェンダーのアーカイブで過去のコミュニティペーパーなどをあさってると、そこではあまり分断は見られない。異性装者というマイノリティーの中で、細かい差異は別にして、みんなで知恵を出し合っていきましょうっていうのがあったと思うんですが、そういうのもやはり崩れてきてるのかなっていうのはあります。
 だから、田亀さんの言ってることはもっともなんですけれども、ある程度これは経済と、それからマンガ全体の動きの中で見ていく必要があるんじゃないか? あともう一つ申し添えておくと、少女マンガとか少年マンガとか、レディースとかBLとか全部分断されてますけれども、それは非常に商業的なセグメントに基づいています。もっとみんな自由に読めたほうがいいし、実際、『週刊少年ジャンプ』なんていうのは、女性読者、非常に多いわけです。エロマンガに関していえば、通説ですけども、3割ぐらい女性作家が占めている。BLのほうは、男性作家があんまりいないんですけれども。昔からエロマンガは女性が引っ張ってきた部分もあります。例えば僕がエロマンガのコラムを始めた『ホットミルク』っていう雑誌は、編集長は女性でした。人気作家の田中ユタカさんを育てたのも、これは別の女性編集者です。だから割とその女の人の力っていうのは、エロマンガでも実は効いている。だから男の牙城だと思われると、やはりちょっとそれは違うぞと。クリエーターもいるし、エディターもいる。

長池:ありがとうございます。ジェシカさん。

杉本バウエンス:そうですね。海外の語り方だと、例えばフランスとかでは、すごい二つの極端な言説となっていて、女性は男性向けマンガ、男性のマンガ家の被害者みたいになっていて。もうこれは先ほどの話とつながるんですけど、話にならないんです。分かってないんです。すごいなんか分かってるつもりで、日本で女性として暮らすって大変でしょとか言われたりして。いまだに。別に。国と比べてもこっちのほうが女性差別、日本は30年間遅れてるとか、そんな遅れてるというか、違うんですよね。もっといい所もあるし、もう結構、本当に原理主義的に、女性が被害者という先入観で語る人が、もう本を読みなさいと今回からは言えるようになってよかったと思って。

長池:ありがとうございます。大体時間になりましたけれども、何か最後、一言ずつコメントのほう、いただければというふうに思います。私からいいですか。自分で言うんですけど。私、今、永山さんの『エロマンガ・スタディーズ』と田亀源五郎で論文を書いているので、また出来上がったら、お送りします。今日気付いたのは、私オリエンタリズムがどうとかって言いながら、10歳からマスターベーションやってますって、英語では言えるんだけど、日本語では言えないなって感じました。英語ではどこでもこれ、学会で言うんです。でも、逆オリエンタリズムみたいな感じで、なんかこれが日本語になると、こんなちょっと恥ずかしいんだっていうことを思ったんですが。永山さんが恥ずかしいっていうことも、それぞれの楽しみの蜜の味だって言われたので、来週は日本語で発表するんですが、堂々と言いたいと思います。私からは以上です。どうもありがとうございました。また論文送らせていただきます。
 他に、濱野君、ふさみ先生、竹内さん、一言ずつ、ジェシカさん、パトリックからもいただいて、今日時間ももう過ぎましたので、終わりたいと思いますが、いかがでしょうか。

濱野:私からいいでしょうか。今回すごくより現場のお話というか、実際にいろんな方と向き合ってお話しをされてきた永山さんのお話を聞いて、すごく印象的だったのは、行政だけがなぜそんなにかたくなに、ある特定のフレームに固執してるのかなっていうのが、非常に興味を持ちました。日本の表現規制を考えるんであれば、多分そこにすごく合理的な理由は何もないので、それに対していくら正論とかエビデンスを出したって、無駄なのがもう目に見えてるっていう中で、どういうふうに議論をする必要があるのかなと思いました。
 あと海外とのずれっていうのもう少し、例えばさっきのジェシカさんが出されたような、ああいった視点みたいなのは、もう少し論争に参加する。あるいは論争に何らかの形で関わるときに、ちょっと自覚しなきゃいけないのかなと。ありがとうございます。

長池:ありがとうございます。他いかがでしょうか。当ててったほうがいいですか。授業みたいに。竹内さん、お願いします。

竹内:今日はどうもありがとうございます。私もちょっと今日のお話を聞いていろいろなことを考えました。どれだけいろんな対話ができるかということ、いろんな立場の違いとか考え方の違いっていうのがあると思うんですけれども、ネット空間を見たりすると、架空の敵みたいなものに、みんな向かってるようなところもあったりして、なんか対話っていうよりは、攻撃みたいな感じになってしまうようなところもあって、ちょっと議論が深まらない部分も残念ながらあったりするような気がします。でも地道な研究や検証、過去の積み上げられてきたものを参照したりして、対話をしていくっていうことが、難しいけどやっていく必要があるんだなということを感じました。ありがとうございます。

長池:ありがとうございます。パトリック、一言お願いします。

ガルブレイス:ありがとうございました。すごく面白かったです。毎回たびたび思いますけど、やっぱり参加させていただいて本当にうれしいです。ちょっと感じたのは、やはり消極的に守るだけではなく、積極的にマンガの多様性をアピールして、それを分かってもらった上で、想像の自由は私たちの自由です。奪わないで。そういうふうに守るだけじゃなくて、積極的にアピールを、われわれの自由の問題ですから、あなたは問題があれば、かかってこいみたいな、そういう風に言ったほうがいいと思います。多様性をアピールした上で、表現の自由、そして私の内心の自由も関わってくるので。それは言ったほうがいいのではないかと思われました。以上です。

長池:それすごい、いいと思います。私も思いました。なんか恥ずかしいとか消極的とか、許してくださいじゃなくて、本当に、ある意味アグレッシブにいくことも必要なんだなって、今日思いました。
 ジェシカさん、どうですか。

杉本バウエンス:私も確かにそう思います。気付かないうちにある程度やってたと思うんです。意外なことを言われて、この発言面白い、このコメント面白いとか思ったりして。長池先生と同じように、私ジェンダー論とかも教えて、マンガについての授業、映画についての授業があって、ジェンダーの性的なものについて話すと、10年前までは恥ずかしいと思いながら語ってて、授業しながら顔が赤くなって。今はもう全然ないんです。

長池:すごい。

杉本バウエンス:今は何にも、なんの影響力もないですよ。言い慣れてたら、堂々と言えるようになるのは。でもこれは練習しないといけないです。

長池:ジェシカさんは永山さんの域に達してきましたね。さすがやっぱり翻訳者ですね。ありがとうございました。最後、ふさみ先生お願いします。

大城房美(以下・大城):永山さん、どうもありがとうございました。すごく刺激的なお話で、本当にうれしかったです。久しぶりにお会いもできましたし。マンガを通して表現の自由を考えていく上で、最後に永山さんが、少女マンガとか少年マンガとかの商業的な分断が行われているっていうところに、触れられたんですけれども。いつも少女マンガを、海外でグローバルにどういうふうに広がっているのかなっていうことを思いつつ、でもそういった商業的なラベル化っていうのが、結局、日本の私たちや海外の人たちも、規制していることに貢献してるんじゃないかなって、両方思いながら、考えています。そういったオリジナルジェンダーっていうのを、ぶち壊すようなことができればなって。この間、多分、学生と話してたんですけれども、BLっていうのが男性ばかりで、そしてそれが少女マンガから派生してきているっていうことを言ってたら、もうBL要らないじゃないっていう感じが出始めて・・・。

長池:要る。

大城:BLが少女マンガから派生した1970年代の話で、竹宮先生の「風と木の詩」の話もしたんです。なぜここで「少年愛」が生まれたか。ひとつは当時「少女」という縛りがあって、女性の体のことが考えられないので、他者の体を使って少女が自分の性やセクシュアリティを表現する媒体としてBLが生まれた。だからBLや少女マンガはそういう主体性を獲得するための挑戦的なジャンルなんだっていう話をしたんです。そうしたら、ある学生が、BLもう要らないじゃん。いろんな表現があるからって。それでびっくりしたところを、思い出しました。この学生の発言は、少女マンガとBLを別々のラベルで区別する必要がいまはもうないのでは、といっているようで興味深かったです。そういう日本マンガが抱えているオリジナルジェンダーの限界のようなものが、海外に出ていくと、かずみさんとも訪問しましたが、よくわかります。例えばフィリピンだとBLに参加しているのが、日本ではちょっと見られないような光景で、女性でない作家さんやファンの方たちもたくさんいらして、日本では異性愛女子のジャンルとして少女マンガからスタートしたBLは、ここにあるのと同じなんだろうか。どこから来たんだろうと考えました。だから永山さんのお話を聞いて、想像力と現実の両立、難しいけれども、やっぱり私たちは想像力の自由とそれが広げてゆく現実の可能性を考えてゆきたいと、強く感じました。本当にありがとうございました。

長池:ありがとうございました。私、本当にもっと研究、調査したいっていう元気とエネルギーをもらいました。これに懲りずに、懲りずにでいいのかな。また本当にこのプロジェクトに来ていただいて、顧問としていろいろとご指導、もしくは仲間としてやっていただければありがたいと思います。本当に勉強になりましたし、楽しかったです。ふさみ先生、これで終わっていいの?

大城:そうですね。というか、永山さんとこのメンバーで3月に公開研究会を企画しています。そこでさらなる日本マンガの躍進、グローバル化、多様なジェンダーのありようや表現の自由について、いろいろ考えていきたいと思います。永山さん、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

長池:お願いします。ありがとうございました。

永山:はい。またお会いできる日が来ると。一応、今、進行しているのが、BLはなぜ規制されるのかっていう本の企画を今、やっています。それはアンソロジー的なものになりますので、後でちょっとまた共有していただいてもいいかなと思ってますので、よければ参考にしてただいて。

長池:シェアしてください。喜んで。興味あります。3月にお会いするときまでに進化しておきます。

大城:そうですね。進化しておきます。

長池:進化しておきましょう。ありがとうございました。

(了)